格付けシャトー・ネゴシアンのトップに会った──決断し、戦力を集中せよ!(GQ JAPAN)

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ピエール・アントワーヌ・カステジャさんは、ネゴシアン5世代目である。初代が「ジョアンヌ」を興したのは1862年。折しも、ナポレオン3世下の第二帝政期のパリで、最初の万国博覧会が開かれた1855年から7年後、ということは、ボルドーを擁するジロンド県知事からセーヌ県知事に抜擢されたジョルジュ・オスマンのもとで進んでいたパリの大改造が、真っ盛りだったころだ。この万博のためにメドック+グラーヴ(シャトー・オー・ブリオン)のシャトーの格付けが行われたことが跳躍板となって、1860年代は、ボルドー・ワインが世界商品として離陸せんとした時代でもあった。ジョアンヌは19世紀のグローバリゼーションの大波のなかで産声を上げたのである。 1950年生まれのカステジャさんが、家業のこのビジネスに飛び込んだのは、1976年、26歳のときだった。超名門ビジネス・スクールのパリ経営大学院(HEC)を卒業して、会計監査やビジネス・コンサルティングを行う世界的企業「クーパーズ&ライブランド」(現プライスウォーターハウスクーパーズ)に就職、そこで2年仕事をした段階で、父親に請われてボルドーに戻った。 「そのとき、ジョアンヌには95人の従業員がいました。いまはそれが45人と半減していますが、売り上げは50倍に伸びました」 謎かけをするみたいにいたずらっぽい表情をうかべていった。童顔の人だ。 70年代後半のそのころ、ジョアンヌはフランスのレストランに自社ブレンドのワインを納め、またボトリング(樽ワインの瓶詰め)も自社ワインだけでなく請負のものもふくめて手広くやっていた。そのビジネスのピークは1989年で、請負のボトリング・ワインと自社ワインで年間1000万本を売り上げたという。そのとき、しかし、カステジャさんは有頂天にならなかった。むしろ、逆だった。名門ビジネス・スクールを出て、クーパーズ&ライブランドに在籍したのがダテではない戦略的思考をしたからだ。 「われわれの未来はどこにあるのか、と自問したのですね。この名もなきワインを自社のセラーでボトリングしつづけて将来が開けるのか。あるいは、自社ワインを“ムートン・カデ“のようなブランド・ワインに大きく育てていくべきか。それとも、ネゴシアンとしてボルドーのグラン・ヴァン(一流ワイン)を世界に売っていくのか、と」 結論は、グラン・ヴァンの扱いに特化す

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(2020/06/21)