慰霊 鹿児島大空襲から75年 語り継ぐ平和への思い(KKB鹿児島放送)

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 太平洋戦争中2000人を超える市民が犠牲となった「鹿児島大空襲」から17日で75年です。今年は、慰霊の行事も規模の縮小をやむなくされています。    太平洋戦争末期、鹿児島市は8回の空襲を受け最も大きな被害が出たのが75年前の1945年の6月17日です。およそ2300人が犠牲となりました。17日朝、鹿児島市の慰霊碑の前に遺族らが参列し、花を供え犠牲者の冥福を祈りました。    畑中 厚子 さん  「(戦争で)姉が亡くなりました。姉の分まで長生きしないといけない。」    例年は遺族らおよそ70人が参列していますが、今年は新型コロナウイルスの影響で市が規模を縮小し、10人あまりとなるなか鹿児島市遺族会の会長・山元正光さんの姿もありました。    鹿児島市遺族会 山元 正光 会長  「戦争の惨禍が起こらないように念じた。」    言葉少なに語る山元さん、複雑な思いを抱えていました。    鹿児島市遺族会 山元 正光 会長  「追悼式とか慰霊祭とかがどんどんなくなったり縮小されたりすることによって、戦争がますます遠のいていったなとそんな感じがして寂しくてなりません。」    75年前の6月17日、鹿児島女子高校の前身・鹿児島市立女子興業学校では校舎や寄宿舎が空襲にあい、防火要員としてとどまっていた13人の生徒が命を落としました。当時、学校や寄宿舎があった場所には今でも校門の一部が残されていて毎年、慰霊式が行われています。    卒業生 田代 キヨ子 さん  「戦争さえなければ元気でいたと思うと残念でたまらない。」    卒業生 木藤 敏子 さん  「戦争の時代だったからあの頃はみんな命がけだった。(ここに来られるのは)最後になるかもしれないと思いお参りさせてもらった。」    遺族や当時の同窓生は高齢となり、年々参加者が減っているため若い世代に語り継いでいこうと去年から鹿児島女子高校で慰霊式を行っています。今年は、新型コロナウイルスの影響で生徒は教室で式に参加し、遺族の手記や同窓生による当時の様子などを校内の放送で聞き、戦争の悲惨さや平和について考えました。

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(2020/06/17)