幻に終わった“デ・トマソ・コブラ”というモデル名──イタリアを巡る物語 VOL.04(GQ JAPAN)

【リンク先抜粋】
フォード製V8エンジンを搭載してはいるものの、イタリアの小さなメーカーによるスポーツカーの開発・製造をフォードが大きくバックアップし、みずからのイメージリーダー・かーとして北米で販売する……。そんなデ・トマソ・パンテーラ・プロジェクトの成り立ちは、どう見ても不思議だ。そして、デ・トマソに取ってこそ都合のよいプロジェクトが、フォードから提案されるとはますます不思議ではないか。 それは前回でも述べたように、アレッサンドロによる用意周到な仕掛けが、フォードの思惑にぴったりとハマったからにほかならない。なにせ煙を売るオトコ、アレッサンドロ・デ・トマソのイタリアン・ジョブなのだから。 デトロイトに蔓延していたミド・マウント・エンジンのスポーツカーへの憧憬が、パンテーラ・プロジェクト誕生の第1番目のキーとなった訳だが、フォードが、ブランディングのためにレース界のアイコンを探していたことが2番目のキーとなった。それまでフォードとレース界とを繋いでいた絆はシェルビーによるものであったが、1960年代の終わりにそれは消滅しようとしていた。キャロル・シェルビーはレース界を引退し、シェルビー・アメリカの活動を休止することを宣言したのだ。フォードはキャロルの生み出したプロジェクトであるACコブラを皮切りに本格的なレース活動への関与を始め、ついにはGT40でル・マンも制覇した。そのレース活動とリンクするイメージはフォードの市販モデルのプロモーションにも大いに活用され、シェルビー・マスタングといったコラボレーションモデルもラインナップされていた。そういった活動のキーパーソンであったキャロルが手を引くとなり、フォードとしても早急に次の手を打たなければならなかった。そんなところに登場したのが、アレッサンドロであった。いってみれば映画『フォードvsフェラーリ』のエンディングから、このパンテーラ・プロジェクトはオーバーラップしつつスタートしていくのだ。

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(2020/06/13)