「桶狭間の戦い」異聞。たったひとりで出陣した信長を追った5人の側近たちの悲しきその後。【麒麟がくる 満喫リポート】(サライ.jp)

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たった六騎で出陣した信長主従だったが、徐々に後続が追いついていく。 信長は、家督継承後に今川方に奪われた鳴海城(名古屋市緑区)を取り囲むように善照寺砦、丹下砦、中島砦(いずれも名古屋市緑区)の三砦を築いていたが、そのうちの善照寺砦に入った。現在は公園になっている善照寺砦は比較的高台にあり、眺望に恵まれていた。 この時点で、信長が鳴海城と大高城(松平元康が入城/名古屋市緑区)の間に築いた丸根砦と鷲津砦(いずれも名古屋市緑区)は今川方に奪われていた。 信長が善照寺砦に入ったのをみて、織田方の佐々隼人正と千秋季忠(せんしゅう・すえただ)が今川方に反撃を試みるが、討ち死にする。千秋季忠は熱田神宮の大宮司で、父・季光は、織田信秀と斎藤利政(道三)が戦った加納口の戦いで討ち死にしている。『麒麟がくる』第2話でその場面が描かれていたのでご存知の方も多いだろう。 このように多くの犠牲を払った織田勢だが、今川陣営は序盤の勝利に気をよくして〈心地はよしと悦んで、緩々(ゆるゆる)として謡をうたわせ陣を居(すえ)られ候〉(『信長公記』)と、緩みが出た。 信長の猛攻が今川方の気の緩みを確認したうえでのものだったかどうかはわからない。だが、『信長公記』によると、その後、戦場は豪雨に見舞われる。晴れ間が見えた段階で、信長は、槍を手に取り大声を張り上げて「それ、かかれ、かかれ」と号令を発したという。 人数的には劣勢の信長勢は、総大将信長の号令に奮い立ったのか、今川勢に猛攻をかける。今川義元は漆塗りの輿をそのままに退却を始める。当初は300の旗本勢が義元のまわりを固めていたが、やがて50騎ばかりになった。 信長は馬から降り、自ら若武者らと攻め立てた。この段の『信長公記』の描写が〈乱れかかって、しのぎを削り、鍔(つば)をわり、火花をちらし、火焔(かえん)をふらす〉と激烈に表現している。 こうした猛攻の末、毛利新介(演・今井翼)が義元(演・片岡愛之助)の首を奪うのである。 『信長公記』の記述に沿って桶狭間の合戦を概観した。総大将(信長)自ら陣頭に立ち、軍勢を鼓舞し戦う姿に、小姓ら側近は奮い立ったに違いない。

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(2020/06/13)