奇妙なり、「東京アラート」(Japan In-depth)

【リンク先抜粋】
中国発の新型コロナウイルス大感染の東京にいると、連日連夜、「東京アラート」という言葉にさらされる。そのおおまかな意味はふつうの日本国民、あるいは東京都民ならもう知っている。だがそれでも抵抗を禁じえない。なぜ「警報」という、わかりやすい日本語を使わないのか。 私はアメリカで暮らした年月が長い。新聞記者として首都ワシントンで通算30年ほども過ごしてきた。いまもワシントンが勤務地である。だから英語の環境のなかで暮らしてきた。英語にもなじみが深い。親近感もある。だがこの「東京アラート」という英語の使い方には、なんとも気持ちの悪い忌避を覚える。 「アラート」の原語はもちろん英語の「alert」 だろう。一般に「警報」「注意報」「警告」という意味である。だから「アラート」とは人間に一定の行動をとることを指示するメッセージだといえる。たとえば、「動け」「止まれ」「気をつけろ」という、相手に対して肉体的、心理的な新たな反応を求める言葉である。だからその言葉は相手の肉体や精神に瞬時に、自然に伝わらねばならない。 戦場で戦闘集団の1人が敵の狙撃の姿勢をみて、仲間に「伏せろ」という警報を送ることがアラートに等しい。あるいは火事が起きる。津波が押し寄せる。そんな危機に「避難せよ」「逃げろ」と相手に肉体的な行動を求めることもアラートだろう。だからその警告の伝達は受ける相手に一瞬にして認知される自然の信号でなければならない。 日本人が英語で「evacuate(避難せよ)」とか、「run away(逃げろ)」といきなり告げられても、そのとおり瞬時には肉体は動かないだろう。「alert」という言葉にも日本語にすれば、そんな欠陥があるわけだ。自分の言葉、自国の用語ではない表現にはそんな瞬時の効果は期待できない。警告がすぐに伝われなければ、当然、危険が生まれる。

続きはこちら

(2020/06/11)