明治神宮の森:林学者や造園家によるナショナルプロジェクト(nippon.com)

【リンク先抜粋】
明治天皇は日本国中を行幸され、広く国民に愛された存在であった。そのため1912年7月に崩御されると、翌々日には東京市長の阪谷芳郎(さかたに・よしろう、1863-1941)や実業家の渋沢栄一(1840-1931)らが「明治神宮の創建」を提唱する。そこには内苑は国の予算で、外苑は国民の寄付で実現すべきだという方向性までも明記されており、これを政府も直ちに受け入れたのである。天皇の御陵は既に京都の桃山に造営されることが決まっていたので、東京市民は敬愛する天皇との絆を求めたのであろう。 崩御の翌13年、内閣は当代一流の学者を中心に「神社奉祀(ほうし)調査会」を設け、立地や規模など内外苑造営の基本計画について検討した。その結果、主祭神2柱ゆかりの土地、すなわち体の弱かった昭憲皇太后のために明治天皇が遊歩庭園として整備した東京府下豊多摩郡代々幡町(よよはたまち)代々木に、社地約70ヘクタールの内苑(社殿と林苑)を造営することを決定した。また内苑から少し離れた明治天皇葬場殿跡の敷地27.3ヘクタールに外苑を造営することも決めた。15年には内務省に「明治神宮造営局」を置き、内外苑の造営事業を開始する。 造営事業は、専門家からなる調査委員会の指導の下、その弟子たちの実行体制で進められた。社殿や記念館など建築方面は東京帝国大学(東大)教授の伊東忠太(1867-1954)、関野貞(ただす、1868-1935)の両工学博士が担った。一方、樹木の選定や樹林地の造成は東大教授の川瀬善太郎(1862-1932)、本多静六(1866-1952)の両林学博士。内苑の芝生園地や外苑の並木・緑地デザインは園芸系の宮内省技師である福羽逸人(ふくば・はやと、1856-1921)、農学博士で東大教授の原熙(ひろし、1868-1934)が担当した。

続きはこちら

(2020/06/11)