大和は言挙げせぬ国……、しかし-「令和の時代」の万葉集(17)(nippon.com)

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 料理人の野崎洋光さんは、温厚、篤実の人であるが、それでいてけっこうな毒舌家でもある。ことに、現在の日本料理のあり方については、手厳しい。今の料理人は、出汁が大切だ、出汁が大切だと言うけれど、出汁というものは、あくまで主役の食材の味を引き立てるものだから、脇役のはず。今の料理人は、料理の主役も決められない、と手厳しい。松茸を主役と決めたら、あとは全員脇役のはず、その香りを楽しんでもらうようにすればいいから、伊勢海老なんか入れちゃだめ。オールスター戦じゃないんだから――。等々、手厳しいのだ。  日本の詩歌は、心情をできるだけ簡潔に表現することを第一とする。だから、八世紀に入ると長歌はあまり作られなくなる。つまり、五七五七七の短歌の時代になるわけだ。そして、さらにシンプルに、五七五の俳諧、俳句が生まれてくる。つまり、野崎さんの言うように、主意とするところを決めたら、後はシンプルが一番なのだ。  大和という国は、言挙げをしない国なのだ。言挙げとは、言葉の力を頼って、大声で言葉を発したり、多言したりすることをいう。つまり、信頼関係さえあれば、大声も多言も必要ないということなのである。言葉もシンプルな国という意味なのである。  そういうことは、充分に承知しているのだが、あなたの旅の無事を祈るということについては、私は「ご無事で、ご無事で」と何度も大声を出したくなってしまう。それが、私の今の心情です、と作者はいいたいのであろう。  シンプルな料理とシンプルな歌、しかし時には……という心。それは、日本文化の共通項だと思う。

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(2020/06/11)