米国代表には後のメジャー史に名を刻む豪華メンバーずらり(東スポWeb)

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【正田耕三・野球の構造(11)】1984年ロサンゼルス五輪、公開競技として行われた野球の決勝は、開催国の米国と日本の顔合わせになりました。舞台はドジャースの本拠地ドジャー・スタジアム。それはもう、試合前から球場全体が異様な雰囲気に包まれていました。  今でこそシーズン中は毎日のようにメジャーの試合を生放送で視聴できるようになりましたが、当時は大リーグも未知の世界。初戦の韓国戦では球場そのものに驚かされましたし、決勝ではスタンドからの盛大な「USA」コールにも圧倒されました。観客が端から順に立ったり座ったりして巻き起こす「ウエーブ」を目の当たりにしたのも初めて。僕を含めて選手たちはあぜんとするばかりで「お上りさん」状態になっていたように思います。  大学生で構成された米国代表は、全20選手のうち15人がドラフトでメジャー球団に指名されるようなそうそうたる顔ぶれでした。2012年に野球殿堂入りしたメジャー通算2340安打のバリー・ラーキンをはじめ、98年に当時のシーズン最多記録を塗り替える70本塁打を放ったマーク・マグワイア、翌年のドラフトで1番目にブルワーズから指名されたメジャー通算2326安打のB・J・サーホフ、同2番目でジャイアンツに指名された同2176安打のウィル・クラーク。のちに巨人でも活躍したシェーン・マックもいました。  しかも彼らはベンチでクチャクチャとガムをかみ、楽しそうに踊っていたりする。スタンドの雰囲気も含めて、当時の日本球界の常識では理解不能なことばかりが目の前で展開されていました。試合開始3時間前からベースランニングまでさせられ「いざ、金メダル」と勇んで乗り込んできた僕らは緊張からガチガチになり、戦う前から完全にのみ込まれそうになっていました。  そんな中で、松永怜一監督から僕ら選手たちを勇気づけるゲキが飛びました。「米国の選手と同じことをやったら勝てない。緊張していい。緊張すれば必ず力が出る」。昨年のラグビーW杯では日本代表の稲垣啓太選手が「笑わない男」として話題を呼びましたが、松永監督はそれ以上に「笑わない男」であり「選手を褒めない男」でもありました。厳しい練習を課されて「なにくそ」と思ったことは何度もありましたが、あの時の「緊張していいんだ」で勇気づけられた選手は僕だけではなかったはずです。  現地時間8月7日の午後8時40分

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(2020/05/14)