【松井優典氏・特別寄稿】“勝負師”野村克也 日本シリーズで執念の「イチロー封じ」(日刊ゲンダイDIGITAL)
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野村克也さんとは、南海時代から半世紀のお付き合いとなったが、改めて思い出すのは昭和44年(1969年)、私のプロ1年目の高知キャンプだ。桂月別館という旅館の大広間で素振りをしているとき、野村さんが数人の記者を伴いやってきた。前年まで8年連続本塁打王、昭和40年には戦後初の三冠王になった大打者だ。一瞬でその場の雰囲気がピリっとした。
野村さんはそこで、バットをへその前で畳と平行に持ち、息を止めて腰を左右に振り出した。上半身は一切動かさず、腰の動きだけでスイングする。これが噂に聞いていた「地獄振り」だった。
野村さんは腰の動きが速い。数えてはいないが、おそらく50回ぐらいはバットが行き来したはずだ。私も真似してやってみた。息を止めているので力んでしまい腰が思うように動かせない。苦しくて10回もできなかった。
「バットは腰で振るものだ」
大打者の野村さんはそれを目の前で実演してくれた。
オープン戦に帯同を許されたときには、勝負師の別の顔を見た。地方での試合後、夜の11時頃に1人で大浴場に浸かっていたときだ。そこへ、肩をすべめて「寒い 寒い」と言いながら野村さんが入ってきた。
巨人の長嶋(茂雄)さんや王(貞治)さんにはライバル心をむき出しにし、人一倍負けず嫌いな人だが、一方で、隣のおっさんみたいな親しみやすさがある。そのギャップが魅力でもあった。
野村さんは69年11月に兼任監督に就任。8年間でリーグ優勝1回。日本一にはなれなかった。現役引退後、9年間の評論家生活の中で知識を蓄え、経験を整理し、89年にヤクルトから監督に招聘された。54歳だった。
ヤクルトのマネージャーになっていた私の目には、34歳で監督になった南海時代のギラギラしたようなものはまったく感じられなかった。
「監督1本で勝負してみたい」
ヤクルトでその願いがかなった野村さん。マネージャーの私は車の送迎をやっていたが、2軍監督、1軍総合コーチにまで引き上げてくれた。
「恵まれた戦力」と胸を張れないチームでもどう戦い、相手を負かすか。常に研究を怠らず、あるときはマスコミをも使って相手選手を挑発、攻撃した。
95年のオリックスとの日本シリーズでは、2年連続首位打者(同年は打点、盗塁王)のイチローが標的だった。勝利のために、イチロー封じは絶対条件だった。
ボール球さえ