日米野球率先して投げ55年3冠王マントルから3K、メジャー誘いは断った…金田正一さん評伝(スポーツ報知)
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金田さんは長い間、弱小と言われた国鉄に在籍していたこともあって、アピールできるオールスター戦や日米野球には率先してマウンドに上がった。オールスター戦通算28試合、投球回64回2/3はダントツ(2位は江夏豊26試合、鈴木啓示46回)だ。
日米野球出場もプロ2年目の1951年全米オールスターから、60年ジャイアンツまで7大会連続出場している。自慢は1955年にア・リーグで3冠王を獲得したヤンキースが誇る強打のミッキー・マントルから3三振を奪ったことだ。
この年、参加したメンバーには中西太、山内和弘、吉田義男ら若くて生きのいい日本のスター選手がおり、調査するために、ヤンキースは滞在中に阪神などで通算237勝の日系2世・若林忠志を急きょ、駐日スカウトとして雇ったほどだ。
金田さんも誘いを受けたが「向こうに行っても(当時はメジャーは16球団)最初はマイナー。行くわけないだろ」と一笑に付していたという。
もっとも、メジャーへの興味がなかったのではない。1962年秋にはワールドシリーズと米野球の技術吸収のために、コミッショナーにうかがいを立てた上で渡米している。「ワールドシリーズを見ていい勉強になった。プレーがスピーディーで守備交代一つ見ても実に気持ち良かった。これからは現役選手もどしどし(メジャー観戦に)渡米した方が良い」と語っている。
59~62年は4年続けて20~22勝と、金田さんにしては“低迷”していた時期だったが、そんな進取の姿勢が、翌63年の30勝につながったようだ。
運転はけがの心配があるので運転手を雇い、暑くても冷房を入れない。「金田式健康棒」を用いてのトレーニングに、体調管理に気をつけた食事療法など、コンディション作りを含めた節制生活も金田さんの400勝のバックボーンとなった。
遺族は、金田さんの功績をたたえるためにも東京ドームなど大きな会場で盛大なお別れ会を開きたい意向だという。
